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最近の若者は随分とスマートに生活しているようだ。
私が大学生だった時代からはもうすぐ20年が経とうとしているが、その当時は「サブスクリプション」などという言葉は、少なくとも日本の一般社会には存在しなかった。「若者の〇〇離れ」などという言葉が流行りだしたのは、我々の世代が社会人になった15年ほど前からではないだろうか。
私自身は「ゆとり世代」「さとり世代」と呼ばれる若者よりも1つ前、バブルがはじけた直後に義務教育が始まった「氷河期世代」であるが、高度経済成長期やバブル期のそれには及ばないが、それなりに当時の若者は物欲があり、欲しいものを手に入れるためにアルバイトをしたりしていた。恐らく、バブル期を謳歌する親世代を見ていたから、無意識に大人の消費行動の手本にしていたのかもしれない。
確かに我々の世代は未来が暗く、モノの消費・購買意欲は、バブル期と比べて一段と低下した。「彼氏の車の助手席に座って夜景ドライブ」や「デートの食事はちょっと小洒落たレストランで」など、まさにバブリーな殺し文句は既に廃れていたが、それでもそういう彼氏に憧れていた女子は多かったし、そういう彼氏になりたい男子も多かった。今の若者のように「それは現実的に無理」「都会に車は無駄」と悟る世代へと変遷していく狭間にいたのだ。
モノに対する欲求だけでなく、「コト」に対する欲望も、我々はその必要性が薄れていく只中を生きてきた。今の若者、特に20代以下の世代は、まさに「デジタル・ネイティブ」であり、生まれながらにインターネット環境が当たり前に存在する世界を生きてきた。我々世代は、物心つく頃にパソコン通信が全盛期を迎え、中学入学と共にパソコン教育が始まり、大学時代にはパソコンは生活の必須アイテムになっていた。だが、当時は携帯電話でのコミュニケーションがせいぜいで、スマホはまだこの世に登場していない。つまり我々はアナログからデジタルへと時代が移ろう過渡期を生きてきたわけだが、大学生当時は、社会が徐々に便利になっていく中でも、アナログな面が随分と残っていた。
例えば海外旅行に出かけようとすれば、今のように何でもネットやスマホで情報が収集できる環境ではなかった。必要最低限の情報は旅行会社のカウンターでパンフレットか、「地球の歩き方」「Lonly Planet」などの旅行書籍から入手したが、紙媒体にはリアルタイム性が乏しいという致命的な欠陥があるおかげで、幾度となく書籍に掲載された情報に騙された。「ここで航空券を買うと安いらしい」「ここの宿が安くて快適だ」といった噂を基に、足で情報を稼いだことも何度もあった。
「情報がリアルタイムではない」ということは、今の世の中では情報価値が失われてしまうが、当時は「分からない」ことが旅の醍醐味であったし、分からないからこそ自分の目で見てみよう、という行動意欲に繋がった。自分しか知らない穴場を見つけたり、現地で出会った旅行者と情報を交換したり、アナログながらも効率的な旅の仕方、というのがあったのだ。
今や、現地の情報はネットやスマホで即座に調べられるし、クリック一つで世界中のサイトを比較して最も安い航空券やホテルを簡単に見つけられる。実際に現地に行かなくても口コミサイトでは生の評価が手に取るように分かるし、YouTubeを覗けば現地の映像と共にメジャーではない穴場的な情報までもが、寝転びながら入手できる。最早、現地に行かずとも旅行気分を味わえるのだ。
これほどまでに情報インフラが整ってしまったら、わざわざ苦労しながら手探りの旅行をすることに意味を見出せない若者が増えるのも必然の結果だと言える。今の若者にとって四苦八苦しながらの旅はストレスなのだろう。
ネットでLCCのフライトを予約し、事前に有名YouTuberの映像を見て予習し、迷うことなく目的地に到達し、欲しいものを適正な値段で買い物して、評価の高いレストランで食事を楽しむ。これが現代の若者の旅のスタイルなのだろう。
先に紹介したように、我々の世代はアナログとデジタルの過渡期であった。我々よりも年配の世代はもっとアナログで、タイムリーな情報収集は困難を極めた。そんな体験を綴ったのが、沢木耕太郎の著した「深夜特急」である。
日本人の海外旅行が自由化して間もない1970年代に、若者が1人で日本を飛び出て、バスだけでロンドンを目指す、という旅行記だが、1986年に第1巻・第2巻が刊行されて以降、この本は日本の若者ののバックパッカー旅行におけるバイブルとなった。
情報が何もない中で、ある時は人の優しさに触れ、ある時は騙され、危険な目にも遭いながら、非日常の旅を楽しむ。そんなダイナミックな世界観が当時の旅行記にはあった。インターネットなど存在しない80~90年代の若者は、この本の情報を頼りにして、バックパック1つ背負って一人でアジアを放浪したのである。
この本には、経済成長を遂げた日本ではありえない、アジアや中東における激動の社会の様子が描かれている。そして著者が度々発生する苦難を何とか乗り越えながら一歩ずつロンドンに向けて歩を進めていく。こんな旅人の姿が、遠く見知らぬ国の情景を重ねつつ、多くの日本人の若者の旅への関心を掻き立てたのである。
本はあくまでも文字の集合であり、その文字の先にある景色は、読み手の想像で補うしかない。それが著作物の楽しみ方であるのだが、旅情を掻き立てられた若者は、どうしてもその景色を自分の目で見て、同じようなエキゾチックな体験をしたくなる。旅行のノウハウなど会得していなくても、どこが危険かも分からなくても、この著者のように何とかなるんじゃないか、という根拠のない自信を携えて、香港やバンコクに向かった方も多いだろう。
私自身は、ほんの少しだけデジタル黎明期の恩恵に与りながら、こうした「純アナログ」な世代の影響を受けてバックパッカーになった。「深夜特急」を読んでは異国の地に思いを馳せ、著作の中の旅人になりきって空想の中で景色を描きながらどう旅を歩んでいくかをイメージトレーニングをし、起きうるトラブルへの対処も頭の中で考えておく。そして、わずかな現金と、まだ複写式の航空券の綴りを持って、一人香港へと飛び立ったのは、大学1年生の冬であった。
「深夜特急」がまさに旅のバイブルであったのは、今50代前後の方々だと思うが、こうした諸先輩方から見れば私の旅の始まりはまだ甘えているように映るだろう。私がバックパッカーだった当時、香港もバンコクもすでに旅行先としては人気の観光地になりつつあり、沢木耕太郎が記したようなカオスなアジアの街の情景はだいぶ薄らいでいた。まさに混沌とした街が、高層ビルが埋め尽くす近代的な大都市へと変貌していく只中だったのだ。
今となっては、そんな発展の只中の激動を感じることができる街は少なくなった。どこも綺麗な街並みになり、交通機関は発達して便利になり、観光客に対するサービスが行き届き、トラブルも確実に減少した。どんなに田舎に行っても、外国人観光客が珍しがられることも減った。
これは旅行者にとっては旅がしやすくなったのだから有難い話であるが、アナログ旅の経験者から見ると、あの、街中がほとばしる活気に溢れ、激動の中で必死に生きる人々の姿を見られなくなってしまったのは、少し残念である。そして何より、そうした旅を今の若者世代はもう体験することができないのだと思うと、寂しい限りである。
いや、もう今の若者は、そんな現地でしか感じることができない空気感は必要としていないのかもしれない。ネットやスマホの事前予習で何でも分かってしまうこの世の中、旅のスタイルも大きく変わったということなのだろう。
知らない街に降り立つ時の期待感、初めて歩く土地での不安感、何も事前の情報がない場所での冒険感、避けては通れない現地の人々とのコミュニケーション。そして国籍や人種に関係なく見知らぬ相手でも意気投合できる旅人だけの連帯感。
目で見て、耳で感じ、鼻で香り、舌で味わい、肌で感じる。
五感を奮い立たせて全身でその国、その街に飛び込んでいく経験は、非常に面白い。事前の予習が完璧であればあるほど、五感は鈍っていき、感動も薄れてしまう。今の若者は「テレビでやってた」「ネットで見たことある」という情報に振り回されすぎてはいないだろうか。
今、予習したことのない見知らぬ土地へ旅に出てみてはいかがだろう。きっと、今まで味わったことのない感動が、そこにはあると思う。