AS I WANT

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ベトナムが思い出させること

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ベトナムはフルーツの季節

中国、インドを経由して、今週はベトナムで仕事。

ベトナムには通算6年ほど住んでいるので、ハノイもダナンもホーチミンも勝手知ったる街だ。

北ベトナムハノイ南ベトナムホーチミンとでは、人の性格も、街も、文化も大きく異なる。さすが同じ国を2つに別けて戦争をしていただけあるが、言葉くらいは同じだと思いきや南北間で通じないこともあるそうなので、ほとんど別の国だと言ってもいいかもしれない。

街の雰囲気や、政治文化の濃淡、商業活動の発展度などを比べると、南北ベトナムの関係は南北朝鮮 (北朝鮮と韓国) の関係に似ている。同じ民族で同じ文字を使うが言語の発達が微妙に異なり、意思疎通はできるがもはや別言語のようであり、北ベトナム共産党の管理都市で、南ベトナムは経済発展を謳歌する商都。まさに朝鮮半島と似た関係のようだ。

 

南部ベトナムはすっかり雨期の様相で、1日のうち数回雨が降る。雨は雷鳴と共にやってきては10分ほど豪雨を降らし、黒々しい雲はサッといなくなり晴れ間が戻る。雨が降る前になると遠くに背の高い暗雲が見え、風が吹き、空気が一気に湿気を帯びる。天気予報がなくても10分先の天気が予測できるのは便利な気候だ。

雨期がやってくると、ベトナムはフルーツが美味しい季節になる。街中には様々な果物を山積みにした屋台が並び始め、市場は色鮮やかな果物屋が目を惹く。そしてどこからともなく漂ってくるドリアンの香り。市場やスーパーマーケットで果物の種類が増えてくると、そろそろ本格的な雨期の始まりなのだと実感する。

 

ベトナム人曰く、南部ベトナムには2つの季節がある。

1つは「暑い季節」。そしてもう1つは「めちゃくちゃ暑い季節」だ。

年間通じて日中の気温が30度を超えるホーチミンだが、雨期を前にしたこの時期は気温と共に湿度もぐんぐんと上がり、不快指数が最高潮に達する。湿度が90%ともなると、気温30度でも灼熱で汗が留まることなく流れ出る。気温が40度近くても湿度が50%を下回ればそこまで不快感はないが、5月から7月頃は気温も湿度も高く、常に肌に纏わりつく湿気が不快だ。

 

そんなベトナムでの生活も長くなると、季節の変わり目を身体で感じることができるようになる。

湿度が高くなると雨期が近いことを感じ、豊富なフルーツが市場に並ぶことが待ち遠しくなる。そして不快な湿気が落ち着くと、日差しの強い夏がやってきて、もうすぐ中秋節だと理解できる。そして雨期が終わり乾燥した季節になると年末が近いことを無意識のうちに感じ取り、旧正月を迎える。

 

日本は元々、自然の移ろいと共に四季がある美しい国だったが、最近は東京でも夏には異常な暑さに見舞われ、冬には歩くことが困難なほど雪が積もるようになってしまった。夏と冬の間を繋ぐ心地よい春や秋が極端に短くなり、暑と寒の二季化が進んでいるようである。

日本には「旬」という美しい言葉と文化がある。

どんな田舎でも24時間営業のコンビニがあり、昼と夜の境も曖昧になっているだけでなく、スーパーに並ぶ野菜や果物は年間を通じて一定であり、全国あるいは世界中からモノが供給され、季節の境界までもが曖昧になっている。

今や日本では「旬」は人の手によって作り出された販促期という意味でしかなく、農作物それぞれが持つ本来の最適期という意味は薄れてきている。技術によっていつでも美味しいものが手に入る「便利さ」を享受する代わりに、私たちは季節の変化を感じる能力を失ってしまった。

昔の人は、季節の変化を機敏に読み取り、田植えや耕作を行い、収穫時期を見極めていた。今や街に住む日本人が農業をするわけにはいかないが、長い間日本人の遺伝子に連綿と刻み込まれた季節の変化を感じ取る能力は、徐々に衰えてきているのだろうが、それでも自然気候に対する順応には時間がかかるようだ。

季節の変化が見えにくくなり、寒暖二極化した気候は、日本人が無意識のうちに感じる季節の変化とどこかで齟齬が生まれる。遺伝子が期待する季節感と、実際の気候が異なれば、体は悲鳴を上げる。茹だるような酷暑に慣れないのはそのせいだろう。

 

ベトナムは今経済発展の只中にある。街ではどんどん超高層ビルが天に向かって伸び始め、外資系の人気チェーン店が続々と出店し、生活水準は怒涛の速さで向上してきている。かつてはバイクばかりが道路を埋め尽くしていたホーチミンでも、最近は自動車の比率が一気に高まっている。人々の暮らしも豊かになり、自由な生活を謳歌し、街行く若者はみな小奇麗で活き活きとしている。

社会は日々便利になり、生活の様式が変わっても、まだこの国の人たちは自然の変化と共に生きている。街の様子はみるみるうちに変わっていっても、やはり天気と共に生活する国民性は失われていない。

季節によって市場に並ぶ農産物は変わり、空気の変化と共に季節の移行に備える。そうして人はみなどんな都会の中にいても、自然とともに生きているのだ、ということを、私はベトナムに来る度に思い出させられる。

ベトナムにはまだ、日本人が失ったものが残っているような気がするのだ。