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交通ルールは道路事情によって変わるのか

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所狭しと道路を埋め尽くす大量のバイク (ホーチミン)

今週はずっとベトナムて仕事である。来週には一段落して日本に帰ることができそうだが、月曜日に商談が入っているので、帰国決定はその後になる。

 

 

立て続けに起きる痛ましい交通事故

日本では、池袋の「上級国民」と騒がれる老齢のプリウスドライバーによる事故で、幼い子供と母親が死亡。大津では、行儀よく歩道奥で保育士に守られながら信号待ちしていた保育園児の列に「前方不注意のまま右折進行」した車によって弾き飛ばされた軽自動車が突っ込み2人の園児が死亡。愛知では丁字路の横断歩道を渡っていた親子が車に轢かれて、重体だった母親が死亡。そして先日はこれまた初老ドライバーのプリウスが厳重な鉄柵をなぎ倒して公園に突進し、保育士が怪我を負っている。

今までも交通事故は多く発生し、無関係の人たちがその被害に遭っていたが、最近立て続けに起きるいくつかのセンセーショナルな事故によって、子供の安全が脅かされる交通マナーに対して、世間の厳しい眼が向けられるようになった。

動力を有した重量体の自動車に対して、生身の人間は無力である。安全のために歩車分離のためのガードレールや縁石、コーナーポールなどが設置されているが、それもすべての道路への設置が義務付けられているわけではない。どこで事故が起きるかを歩行者側が予測することは困難であり、特に小さな子供を連れて歩く親や保育士には成す術がないのが実態だ。

一方の自動車側も、安全運転支援技術が発達し、完全に排除できないヒューマンエラーをシステムがコントロールして事故を回避しようと、様々なメーカーがしのぎを削っている。しかし、時速100Km近くで走行する車のシステムが前方に歩行者を発見しても、わずかな時間の間に急停止させられないし、交通法規を遵守していれば起きえない対向車の急な右折、そしてそれに対する緊急回避行動までをシステムがすべて予測することは、残念ながら今の技術では実現不可能だ。

道路交通のローカルルール 

そんな中、長野県松本市の市長が「松本走りをやめて」と発言し、ちょっとした物議を醸し出している。

ニューサイトの記事などによれば、松本に限らず、こうしたローカルな交通ルールは全国各地に存在するようだ。「名古屋走り」は有名だし、私がかつて住んでいた九州のある都市でも「赤信号になっても2~3秒は行ける」といったルールが確かにあった。

carview.yahoo.co.jp

基本的に職業ドライバーでない限り、日常の運転範囲は一定の地域の中に収まる。平日の通勤や、家族の送迎、買い物、営業エリア内での社用車の運転など、特定の慣れた場所での運転が中心となる場合が多いだろう。しかし土日や行楽シーズンになれば、少し遠出をしたり、逆に別の地域からの観光客の来訪もあり、そこで地域間のローカルルールが相対することになる。

前々から、東京、特に首都高速で起きる交通事故は、東京以外の地域からの流入車が多いのではないか、と個人的には思っている。狭く急カーブの多い複雑な道路網、加速車線の短く左右合流部、左右で統一されていないランプ、繰り返される分岐と合流・・・。そして、様々な地方から流入する大量の自動車。

不慣れな道路では安定した走りが難しく慎重になるし、急な運転操作も多くなる。また、東京民の運転ルールにローカルルールというものがあるのかどうか実感はないが、少なくとも「松本走り」「名古屋走り」などの交通法規を無視したローカルルールは見られない。流入してくる地方独特のローカルルールに慣れたドライバーと、既に東京での運転に慣れているドライバーとの運転感覚の乖離は大きく、そのルール同士が整合が取れなくなり、事故が起きるケースが多いのではないかと感じている。

ローカルルールはありか?なしか?

私の答えは「なし」だ。

先に参照したニュースでは「松本には松本の事情があり、円滑な交通のためのローカルルールが存在するのだ」「交通法規を守っていたら、松本は大渋滞になってしまう」と、ローカルルールの存在を是認するような論調が展開されているが、これは明らかな間違いだ。

私がこの論者の意見を否定する理由はただ一つ。それは「ここは日本だから」だ。

日本は面積は狭いが東西南北に長く、47の都道府県に1億3,000万人弱が暮らしている。北海道の北端と沖縄の西端を結ぶ距離は3,000kmにも及ぶ。それだけ国土が長ければ、地域ごとに、人口の多寡、道路整備状況、その他の交通機関の発達度、街のつくりと歴史など、それぞれの事情や気候によって自然発生的に特色のあるルールが発生するのは否定できない。しかし、それぞれのローカルルールを「共通化」しなければ、広い国土における交通往来の安全性は確保できない。これを規定するのが法律だ。

交通ルールに限らず、地域ごとの目線で言えばそれぞれの地域で扱いやすいルールがあるだろうが、その地域の勝手ばかりを優先していては日本という国家を維持できない。第一の基礎になる法律が国のルールを定め、それぞれの地域の即したルールは法律の範囲で条例を制定することによって規定するのがこの国の決まりだ。

日本が法治国家であるという大前提が理解できていれば、前出の論者のような考えにはならないだろう。地域ごとに勝手なルールが蔓延してしまっては、長距離のバスやトラック、遠出する観光客はどうしたらよいのか。ちょっと考えれば分かりそうなものである。

誰もが理解できるように、国ごとに交通ルールが異なるのは構わない。日本の自動車免許保有者は申請すれば国際免許証を取得できるが、だからと言って国際免許証で運転ができる国でも日本の交通ルールをそのまま持ち込む人はいないだろう。その国の運転事情や道路環境を考慮し、注意深く運転するはずだ。だか、同じ交通法規の下にある日本で、明確な地域別の交通条例もない中で、他国の事例を持ち出して勝手にドライバーが編み出したローカルルールを法律に優先させるというのは、いくら地域事情を考慮してその必要性を説いたところで、理論が飛躍しすぎている。

ベトナムの交通ルールは

参照した記事の中では、日本と対極の例としてベトナムの交通事情が紹介されている。「松本走りで驚いていたらベトナムじゃ運転などできない」と述べているが、ベトナムで自動車を運転する必要の要否はともかく、交通法規があるにも関わらずそれを無視したローカルルールと、法制度が未発達の国の事情とを比較すること自体が間違っている。

残念ながら、ベトナムは日本のような完全法治国家ではない。

ベトナムにも法律もあるが、法律によって犯罪を裁く裁判所は判例主義ではなく、裁判所に法令解釈権はない。法令の解釈判断を下すのは国会の常務委員会で、その都度国の都合も反映しながら裁定する。日本のように、立法・行政・司法が独立した三権分立構造ではなく、国 (=共産党) をトップとして立法・行政・司法が国の意に沿って動く「三権分業構造」なのだ。そのため法律は時の権力者の意向によって簡単に解釈が変わるので、法律はその解釈に自由度が保てるよう、かなり緩く作られている。

上記の通り、ベトナムでは法律はあくまでも参考程度でしかなく、現場での運用裁量が相当幅広く考慮されている。そのため日本のように仔細に渡り法律で国民の行動をコントロールするという前提がない。どの違反で罰金がいくらという明確な基準も運用されていないに等しく、罰金は言い値だし、大抵の場合、交通違反の罰金は交通警察の懐に入る。また、何をしたら (しなかったら) 違反なのかも分からないし、何もしていなくても交通警察に停止命令を受けることもある。自分が違反行為をしていなくても、交通警察から声をかけられた時点で罰金決定なのだ。罰金を払わない限り解放されない。ただし罰金はマケてくれるケースもある。罰金額はその時に鉢合わせた警官次第だ。

そもそもベトナムには運転免許を取得するための教習所もなく、免許試験場はあるが簡易な筆記試験と適性検査のみであり、金をいくらか払えば試験をしなくても免許証が買える国なのだ。

ベトナムの交通事情が悪い理由

ベトナム国民はまず適齢になったらバイクに乗る。バイクはその機動性を生かして、狭い道でも渋滞の中でもスルスルと隙間を縫って走る。道路からバイクが溢れているホーチミンでは、少しでも渋滞に隙間ができたらそこを目掛けてバイクが突っ込んでくる。朝夕の通勤ラッシュ時は、本当に隙間がない状態でバイクが川のように道路を埋め尽くしている。

そして、会社に勤め平均以上の収入を得て、自動車に乗ることがベトナム人の夢だ。自動車を手に入れた人は、このバイクの川の中で車を運転しなければならないが、運転技術はバイクのそれと変わらない。少しでも隙間があれば車であっても突っ込んでいくし、右に左にと頻繁に車線を変更して、少しでも前に進もうとする。これが大渋滞の原因になるのだが、本人たちはそれを理解していないし、そんなことは関係ない。自分が走りたいように走るのがベトナム流だ。

先の参照記事では「ベトナムの強引な左折」をローカルルールとして紹介しているが、こんな道路事情でルールも何もなく、強引に左折してはいけない法律もなければ、強引に左折する車を咎めるバイク乗りもいない。みんな事故が起きないように騙し騙し運転しているのだ。

ベトナム人は「安全」という概念が圧倒的に欠落しているので、こんなに酷い交通状況でも、バイク乗りはバイクで走りながら電話をするし、車の運転手もメールをしながら運転している。それで何故事故が起きないのか、というと、交通の平均速度が圧倒的に遅いからだ。ホーチミン市内であれば平均時速は20km程度、朝夕は10km以下だ。ホーチミンの玄関口であるタンソンニャット空港から、ホーチミンの市街地中心部まではわずか8kmしかないが、通勤時間帯は車での移動に1時間かかる。平均時速8kmだ。空港で車に乗ってから市街地に着くまで、ドアの自動ロックが作動しないことも日常だ (一般的に時速20kmを超えると自動的にロックされる)。

ベトナム人の安全感覚

ベトナムでの交通死亡事故はホーチミンの都市部ではなく、交通量の少ない郊外や地方都市で多い。都市間を結ぶ国道などでは、こんな運転技術しか持たないドライバーがビュンビュンと飛ばしているので、一度接触事故が起きれば大惨事になる。特にベトナムでは都市間移動はバスが中心でかなりの数のバスが走っているが、バスが道路から転落した、前方不注意でバス同士が追突したなどは日常茶飯事で、バスだから事故当たりの死傷者数も多い。

ベトナム人にとって「運転のうまさ」は「安全」ではない。わずかな隙間を縫うように走り、クラクションを鳴らし続け、目的地まで最短時間で到着するためのレースに勝った者が讃えられる。タクシーやハイヤーといった「プロドライバー」は更にそういう傾向が強く、乗客の安全など微塵も考慮していない。客が乗っていようと大声で電話もするし、自分の好きな音楽も大音量で流す。急いでいるから急ブレーキ・急加速・急ハンドルは当たり前だし、サイドミラーの接触などは事故に含まれない。

ベトナムの道路がこれほどにバイクで埋め尽くされても都市機能が何とか維持されているのは、決して暗黙のローカルルールがあるから成立しているのではない。いや、最低限のローカルルールですらあれば、もっとベトナムの交通事情はマシになっている。国民に等しく共通ルールを課す法律が貧弱なせいで、ベトナムの人々は仕方なくこの劣悪な交通環境を受け入れ、それに適応してきたにすぎない。

こんなベトナムの環境と、地域の道路事情の悪さを言い訳にした勝手なローカルルールを同じ土俵で比較することに、何の意味があるのだろうか。

歩行者の安全を確保するには

ベトナムでも自動車対歩行者の接触事故や死亡事故は起きる。それは運転技術の未熟さによって引き起こされるケースが多いのだが、それでもこれだけ劣悪な交通状況にあっても頻発しているとまでは言えない。

その理由は、歩行者は道路が安全な場所だと考えていないからだ。

歩道上には屋台が並び、屋台の利用客のバイクが大量に駐車されていてまっすぐ歩けないし、後ろから渋滞を避けたバイクがクラクションで歩行者を脅しながら猛スピードで歩道を走り抜けていくことも日常の風景だ。歩行者のための信号なんてほとんど見かけないし、あったとしても赤信号に突っ込んでくる自動車やバイクは後を絶たない。

歩道を歩いていても安全な場所なんてないから、ベトナム人は短距離でも極力歩かない。100mの距離でもバイクに乗って移動する。そしてどうしても歩かなければいけない時は、まるで戦場を歩くかのように戦々恐々としながらソロリソロリと歩く。スマホ片手に惰性で歩いている人などいない。

日本では、歩道は歩行者のための通行路であり、そこに車が突入してくるとは誰も思わない。だからスマホ片手にイヤホンで音楽を聴きながらでも歩ける。それは油断しているのではない。それだけ日本の道路は安全に設計され、歩行者の権利が法律によって与えられているからだ。

冒頭に挙げたような事故は、歩行者側には一切の非がない。歩行者の不注意でも、交通違反の事実もない。あくまで法律を守らない運転者が起こしたイレギュラーなものである。このような痛ましい出来事をなくすためには、歩車分離のためのガードレールや、交差点のコーナーポールを設置する以外に、日本では全国共通の法律で自動車側の危険行為を制するしかないのだ。歩行者側にできることと言えば、ベトナムのような短距離であっても歩いて移動しないことしかないのだ。

松本市の例はあくまでも氷山の一角

仮に、長野県松本市の道路事情がベトナムほど劣悪であるか、市民の安全感覚がベトナム程度なのであれば、論者の言うような「松本走り」の必然性もあるかもしれないと思うが、果たしてどうだろうか。歩行者側が、松本市の道路の危険性を十分に認識し、屋外を歩くことを躊躇うほどならば一考に値するだろう。

道路や街のつくりが悪いから、多少は交通法規を逸脱した運転も許されるべき。そういう感覚の運転者がいる限り、ルール同士の齟齬によるトラブルや事故は起きる。どういう運転をすべきかは、法律という共通のプラットフォームの上でのみ議論をすべきだ。どうしてもその地域において、全国共通の法律が適切でない場合は、明文化できる形で条例化し、その地域への流入口には警告表示を掲出すべきだ。

現行の法律が、安全を維持にあたって不便であったり時代遅れとなっているのであれば、それは正式な法改正の手続きを踏むべきだ。日本は法治国家で、全国共通の法律があり、そしてそのために政治があるのだ。その正式な手続きを踏まず、どれだけローカルルールの必要性を説いても、自分勝手なわがままにしかならない。

松本や名古屋のローカルルールは、あくまでも氷山の一角に過ぎない。地域ごとのローカルルールだけでなく、運転技術を過信した運転者による独自の安全感覚もあるだろう。

足を負傷していても大丈夫と自分の能力を過信する老人運転者、いつも行けるから今回も行けるだろうと前方を確認せず交差点を妄信する女性運転者、いずれも根拠のない自信に基づくものだ。ブレーキが効かなかった、勝手に車が進んだ、と感じるのも (事故後は恐らく本当にそう思っていたのだろう)、自分は間違ったことをしていないという自信が根底にあるからだ。しかし大抵の場合、事実は異なる。

運転者がミスによって人を殺めてしまう事故は、きっとこれからもゼロにはできない。しかし減らすことはできる。そのための第一歩は、交通ルールを守ることだ。

交通ルールは、時に厄介で、特に無意味に感じるが、自身を縛るという役割だけではなく、その他多くの他者と同じルールを共有するということを忘れてはいけない。例えば見通しの悪い交差点の一時停止標識。見えない方向からくる車は、その交差点から出てくる車は停止すると思っている。そこで一時停止を無視して交差点に進入すれば、事故が起きる。もちろん一時停止違反をした側が罪に問われる。そうした共通認識を一方的に破棄して、自身の能力や経験を過信しすぎて独自ルールを作ることは、自ら安全を放棄したことを意味することに気付くべきだ。